大沢宿からは県道131号線のワインディングロードを快適に走破し、そのまま県道72号線、国道401号線とつないで、会津若松市内へ。実は会津若松に来るのは初めてです。まずはなんと言っても、鶴ヶ城を見ようと駐輪場を探していたら、
8月14日 11:30 こけた
こけました。GN125を買って以来初転けです。まあ、このバイク前輪が自転車のように細いですからね。前からそのような転び方を予感はしていましたが、ものの見事に転けました。アスファルトの上に砂がばらまかれていたような場所で方向転換しようとしたらズルッと行きました。幸い速度は殆どゼロでしたが、足が見事にバイクと地面の間に挟まれました。大型バイクならば足の骨がぐしゃぐしゃになっているところだと思いますが、なにせGN125は軽いので「痛てて」ぐらいですみました。バイクの傷等をくまなく探しましたが、殆ど無傷、後ろにつんでいるGIVIのケースが殆ど一身で傷を負ってくれました。すばらしい。こんな所にも大型リアキャリアの恩恵が。走り出したら、なんだか方向指示器が天の方向を向いているのと、どうもバックミラーというより左側のハンドル全体の方向が変。両方とも手でぐっと回したら正常な方向に直りました。この辺も超シンプルなGN125のいいところです。
8月14日 11:40 鶴ヶ城
ついに来ました鶴ヶ城。つまり会津若松城です。幕末好きの私にとっては一度は来たかった場所の一つです。まずはその歴史から。
1384年葦名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。以後、代々葦名氏の城であった。戦国時代中後期には、英傑・葦名盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。
伊達政宗は葦名氏と連年戦いを繰り返した。1589年(天正17年)政宗は豊臣秀吉の制止を無視して葦名義広を攻め葦名氏を滅ぼし黒川城を手にした。しかし政宗は、1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年) より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。1593年(文禄2年)望楼型7重(5重5階地下2階とも)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。
1598年(慶長3年) 氏郷の子・秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年(慶長5年)徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍に加担した上杉景勝を30万石に下げ、出羽国米沢に移封した。翌1601年(慶長6年)蒲生秀行が再び入城したが、1627年(寛永4年)
嫡男の忠郷に嗣子がなく没したため、秀行の次男・忠知が後嗣となり伊予国松山に移封された。代わって伊予松山城より加藤嘉明が入封。子の明成は西出丸、北出丸などの造築を行い、1611年(慶長16年)に起きた会津地震により倒壊した天守を今日見られる層塔型天守に組みなおさせている。1643年(寛永20年)加藤明成は改易され、出羽国山形より3代徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となった。1868年(慶応4年)戊辰戦争の際には会津戦争にて会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢に、薩摩の援軍の助けをかりても遂に城は落ちなかったが、その後開城された。戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。

美しいです。復元されたものとはいえ、当時を偲ばせて、大変美しいです。お城大好き。

木々のあいだから見ても美しい。

お城の公園から見ても美しいです。戊辰戦争の悲劇を悲しく思うと共に、このような美しいお城を毎日見ていた当時の人たちは、それだけで美しい心になれたのではないかと思います。よい芸術作品は人の心をきれいにします。
そんなわけで、東北ツーリングはまだまだ続きます....。 |